イスラエル、パレスチナ、シリア、ヨルダン、レバノン、イラン、イラク、アフガン、、、、パキスタン、インド、トルコ、タイ、チャイナ、インドネシア、ロシア、アフリカにまで、、、無論米国や欧州にまでも、、、、
ユダヤ(の人々)は太古に失った地を宗教的な口伝で民族の記憶に刻み続け、そこには確執を産んだ選民思想が生き続けてしまった。立場の逆転から迫害の苦難を乗り越えていく為には、それが励みになった事もあるかも知れない。しかし、それらが確執の根源的原因の一つである事に変わりはない。イスラムはどうなのか。そこに同じく排他排除的な宗教的思想がないか。何れもがダウンスパイラルな負の連鎖によりヒステリックな憎悪をほとばしらせているのではないか。こういった状況を見るにつけ、ユダヤ、キリスト、イスラムという源流を同じくする兄弟の様な宗教の、悲しき面が、憎悪に増幅される、一神教的な排他性が争いを何時までも終わらせない。
以前に思い巡らせてみた通りに、負の連鎖というものの発端を探れば幾らでも遡る事が可能である気がして、そこで誰かどこか一方のみに責任を押し付けるべきものでもないと、大変にだが引いて俯瞰して見ればそう思えてくる。そうするとそこで必要なのは、そのアナライズ、認識であり、相当無意味に思えもするこれが或る意味を為す事に気付く。どこか、誰か一方のみにその責任を押し付けるべきものでもないと。
その上で、現状を改善してゆくために、その負の連鎖を止める事を誰かが、皆が、考えていかなければならないのだ。そうでなければ、千年の争いは延々と続いていく。その悪意と恐怖と悲しみの坩堝においては、人の命が余りにも粗末に扱われ、時が経る度にその小さな命と夢は露と消えてゆく。あまりにも軽く、そして儚く。ユダヤ人でもアラブ人でも、何人でも。
太古に失った地へ、イスラエルは性急に入植を進め、同じくかの土地を聖地とするアラブは怒り、今度はまた逆にアラブ人が弾き出されるパレスチナ難民が発生し、そして攻撃し合い、互いの憎悪は深まり紛争は混迷を極めてゆく。アラブ諸国で囲まれたかの地において、小さなイスラエルという国はこの諸々の経緯と状態で常に攻撃対象と目されもし、当国が一番それを警戒して恐れている。優れた科学技術と、彼らが言う苦難の時期に世界で成功した一部のユダヤ勢力が各国でロビー活動を行いこれを懸命に、間違った方向でサポートしてしまう。アラブ諸国に囲まれたかの地で、イスラエルはアルマジロと言うよりハリネズミの様に鋭利に武装して、特にキリスト教勢力を(ずっと指摘してきた意味の)逆差別と併せて驚く程に操り、サテライトさせる。その最たるものが、また、米国である。
米国はそのアラブ諸国を、宗教的な観点や油という利権も併せて、自らのエゴとサテライトでこの地にのめり込んで、まるで重戦車の様に相当部分を無視して何もかもを薙ぎ倒してゆこうとする。物量と科学において敵うべくもないアラブは、ベトナム辺りから特に顕著になってくる対抗策としてゲリラ戦術の多用で対抗する。この恐ろしい千年の紛争は、常にお互いの生存権を掛けてしまったかの様な、完全なる潰し合いの構図へと進んでゆき、、、物量と科学で到底敵わない方のゲリラ戦術は、文明の存亡と捉える事で、あらゆるルールがその前提に無意味となってくる事で、おぞましい程に過激化してゆく。宗教、民族的なアジテートをもって、テロリズムに発展。もう、戦争と日常の垣根が壊されてしまったかのような、波及する憎悪と恐怖、怒り、悲しみである。こうなると、重戦車・米国の傲慢で高圧的な軍事至上のやり方では制圧不可能となってくる。中東の地は液状化を起こし泥沼となってゆく事で、重戦車は沈んでゆく。それどころかこのままでは、みんな沈んでゆく。
本末転倒
以前にも記したが、世に言うユダヤ陰謀論なるものは、私は幻想であると思う。イスラエル国、ユダヤ系民族全体でそんな事を行っているなどというものは。
各地域にいるユダヤ系の人々で、普通に暮らしている、皆と平和に暮らしたいと願っている人は確実に多く存在しているのであり、それは逆差別を利用した悪辣な利得行為、圧力行為を行う不埒な連中が存在して、そういった行いを続ける事によって多くが無用な疑いや被害を同じく被っている。
例えばだが、以前も触れたあのジョージ・ソロスという人も、明らかにこういった行為や過激なシオニズムに反対している人である。と私はそう思う。
何故この様な確執が産まれてくるかといえば、それはこれまで述べて来た通りである。
差別が産んだ逆差別が、再び差別を産む。繰り返す負の連鎖。
本当の自由って何だろう
人が生きる上で誰もが、互いに最低限侵されるべからざる尊厳。人権。
これが守られる大地に駆け、海をかき分け、空を望む人の、一時の夢の様な生。
ある無限の可能性に怖れ、喜びに打ち震える瞬間。
まるで自然、時に人がそう捉える神への畏怖と感謝の様に。
その尊厳が踏みにじられ、余りにも惨めに、その生すらもが毎日危うい状態の人々がこの世にいる。
豊かな国、平和な国、強い国、あんまり関係が無い国で、日々にあるその幸福を享受する事は罪じゃない。
楽しく、いや、普通に生きればいい。何も、生きる事に罪悪感を感じなくていい。
誰だって生きていいのだ。だから簡単に死ぬな。人を殺すな。
そして、
本当の自由を人類がその手に掴む為には、今そこにある、あそこにあるその尊厳の蹂躙を、闇を、見て見ぬ振りをしないことだ。
何をどう言い換えてみても、どっちだろうと、
誰かを踏み付け、その尊厳を踏みにじって叫んでいる自由や正義などまやかしのエゴである。
そう叫ぶもの、騙すもの、諦めてしまうもの、見て見ぬ振りをするもの
この世の闇に打ち勝つ為には、きっと自分の中に潜む闇に対峙して、
これにこそ克たなければならない。
その先にきっと、本物の自由がある。
多くの人々に降り注がれる光が、その闇の向こうに待っている
あまりに闇が大き過ぎても、
人にはこれを助ける知があり、色んな力があり、そしてその力を合わせるまた、人が居る。
その全てを司るのが、心である。
ユダヤ(の人々)は太古に失った地を宗教的な口伝で民族の記憶に刻み続け、そこには確執を産んだ選民思想が生き続けてしまった。立場の逆転から迫害の苦難を乗り越えていく為には、それが励みになった事もあるかも知れない。しかし、それらが確執の根源的原因の一つである事に変わりはない。イスラムはどうなのか。そこに同じく排他排除的な宗教的思想がないか。何れもがダウンスパイラルな負の連鎖によりヒステリックな憎悪をほとばしらせているのではないか。こういった状況を見るにつけ、ユダヤ、キリスト、イスラムという源流を同じくする兄弟の様な宗教の、悲しき面が、憎悪に増幅される、一神教的な排他性が争いを何時までも終わらせない。
以前に思い巡らせてみた通りに、負の連鎖というものの発端を探れば幾らでも遡る事が可能である気がして、そこで誰かどこか一方のみに責任を押し付けるべきものでもないと、大変にだが引いて俯瞰して見ればそう思えてくる。そうするとそこで必要なのは、そのアナライズ、認識であり、相当無意味に思えもするこれが或る意味を為す事に気付く。どこか、誰か一方のみにその責任を押し付けるべきものでもないと。
その上で、現状を改善してゆくために、その負の連鎖を止める事を誰かが、皆が、考えていかなければならないのだ。そうでなければ、千年の争いは延々と続いていく。その悪意と恐怖と悲しみの坩堝においては、人の命が余りにも粗末に扱われ、時が経る度にその小さな命と夢は露と消えてゆく。あまりにも軽く、そして儚く。ユダヤ人でもアラブ人でも、何人でも。
太古に失った地へ、イスラエルは性急に入植を進め、同じくかの土地を聖地とするアラブは怒り、今度はまた逆にアラブ人が弾き出されるパレスチナ難民が発生し、そして攻撃し合い、互いの憎悪は深まり紛争は混迷を極めてゆく。アラブ諸国で囲まれたかの地において、小さなイスラエルという国はこの諸々の経緯と状態で常に攻撃対象と目されもし、当国が一番それを警戒して恐れている。優れた科学技術と、彼らが言う苦難の時期に世界で成功した一部のユダヤ勢力が各国でロビー活動を行いこれを懸命に、間違った方向でサポートしてしまう。アラブ諸国に囲まれたかの地で、イスラエルはアルマジロと言うよりハリネズミの様に鋭利に武装して、特にキリスト教勢力を(ずっと指摘してきた意味の)逆差別と併せて驚く程に操り、サテライトさせる。その最たるものが、また、米国である。
米国はそのアラブ諸国を、宗教的な観点や油という利権も併せて、自らのエゴとサテライトでこの地にのめり込んで、まるで重戦車の様に相当部分を無視して何もかもを薙ぎ倒してゆこうとする。物量と科学において敵うべくもないアラブは、ベトナム辺りから特に顕著になってくる対抗策としてゲリラ戦術の多用で対抗する。この恐ろしい千年の紛争は、常にお互いの生存権を掛けてしまったかの様な、完全なる潰し合いの構図へと進んでゆき、、、物量と科学で到底敵わない方のゲリラ戦術は、文明の存亡と捉える事で、あらゆるルールがその前提に無意味となってくる事で、おぞましい程に過激化してゆく。宗教、民族的なアジテートをもって、テロリズムに発展。もう、戦争と日常の垣根が壊されてしまったかのような、波及する憎悪と恐怖、怒り、悲しみである。こうなると、重戦車・米国の傲慢で高圧的な軍事至上のやり方では制圧不可能となってくる。中東の地は液状化を起こし泥沼となってゆく事で、重戦車は沈んでゆく。それどころかこのままでは、みんな沈んでゆく。
本末転倒
以前にも記したが、世に言うユダヤ陰謀論なるものは、私は幻想であると思う。イスラエル国、ユダヤ系民族全体でそんな事を行っているなどというものは。
各地域にいるユダヤ系の人々で、普通に暮らしている、皆と平和に暮らしたいと願っている人は確実に多く存在しているのであり、それは逆差別を利用した悪辣な利得行為、圧力行為を行う不埒な連中が存在して、そういった行いを続ける事によって多くが無用な疑いや被害を同じく被っている。
例えばだが、以前も触れたあのジョージ・ソロスという人も、明らかにこういった行為や過激なシオニズムに反対している人である。と私はそう思う。
何故この様な確執が産まれてくるかといえば、それはこれまで述べて来た通りである。
差別が産んだ逆差別が、再び差別を産む。繰り返す負の連鎖。
本当の自由って何だろう
人が生きる上で誰もが、互いに最低限侵されるべからざる尊厳。人権。
これが守られる大地に駆け、海をかき分け、空を望む人の、一時の夢の様な生。
ある無限の可能性に怖れ、喜びに打ち震える瞬間。
まるで自然、時に人がそう捉える神への畏怖と感謝の様に。
その尊厳が踏みにじられ、余りにも惨めに、その生すらもが毎日危うい状態の人々がこの世にいる。
豊かな国、平和な国、強い国、あんまり関係が無い国で、日々にあるその幸福を享受する事は罪じゃない。
楽しく、いや、普通に生きればいい。何も、生きる事に罪悪感を感じなくていい。
誰だって生きていいのだ。だから簡単に死ぬな。人を殺すな。
そして、
本当の自由を人類がその手に掴む為には、今そこにある、あそこにあるその尊厳の蹂躙を、闇を、見て見ぬ振りをしないことだ。
何をどう言い換えてみても、どっちだろうと、
誰かを踏み付け、その尊厳を踏みにじって叫んでいる自由や正義などまやかしのエゴである。
そう叫ぶもの、騙すもの、諦めてしまうもの、見て見ぬ振りをするもの
この世の闇に打ち勝つ為には、きっと自分の中に潜む闇に対峙して、
これにこそ克たなければならない。
その先にきっと、本物の自由がある。
多くの人々に降り注がれる光が、その闇の向こうに待っている
あまりに闇が大き過ぎても、
人にはこれを助ける知があり、色んな力があり、そしてその力を合わせるまた、人が居る。
その全てを司るのが、心である。
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今、自分が出来る事をほんの少しでもいいから為す事。
ただ不平を言うだけでなく、貴方が出来る何かを。
信頼出来る誰かを応援するのでもいい、一言届けるのでもいい
意見を述べるのでも、ちゃんと聞くのでもいい
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