結局こういった極端なバブル等で何が起こって何が残るのだろうと考えると
こういった住宅なり、より大きな箱ものや生産したモノ、現物、技術
或いはまた take-over 合戦
支払われたのは欲やエゴにより見誤った企業や投資家達の資本と、それで処理出来ない部分に宛てがわれる国民資金、要は税金等
つまりは労働力、エネルギー
アングロネット覇権主義の喧伝した市場原理主義等というものは、覇権主義延命の為でもあった原始社会への回帰ベクトルであり
かといって対立軸とし同じく極端に位置し敗北した共産主義は、競争意識の低下による生産や発展の低下、
つまり人間のエネルギーの停滞と他思想弾圧(市場原理側もさして違いもしないが)の様な閉塞
狭い視野で勝利勝利言いたがるので敢えてまた言うならば、既に敗北している市場原理主義は、このままちゃんと負けさせてやるべきでもある。
共に人類のより多くがより良い生活や幸福感、平穏を得られる為には望ましくなく
私としてはこの単純な二元論的な精神世界から脱却すべきだと重ねるものである。
科学技術の発展が別のアプローチとして大きな意味を持つが、この技術発展には人の知的エネルギー、生産実現には労働エネルギーが不可欠でありこれを促す競争も必要、というかある程度旺盛に望ましいのである。
よりよいものを取り入れて発展すればいいだけの話
競争意識、市場経済と自由は保証しつつ、人が人として生きる為に最低限守る制限、保障が必要であり、これらのバランスである。
この様に政治的なアプローチとテクノロジーも別軸ではなく絡み合っている。
また、独裁と民主の二元論だが、これも立憲君主制の様な歴史的な文化や慣習、背景をも含んだ、2重構造の様なそうでない様な不思議な形態もある。
単純に、独裁は極端のハイリスク・ハイリターンであり、民主はローリスク・ローリターン
優秀な独裁者指導の国家は、目を見張る様な善政を成し遂げもするが、その独裁者が愚鈍であったり狂えば一巻の終わりで始末に負えない
その場合改善するには、穏健に対話で済めば良いが大抵そうはならず、争乱混じりの軍事クーデターや革命による混乱で血が流れ失われるものは多大になる
民主は常に衆愚化の憂き目を見る。現在の世界構造における米国一極エンペラリズムでブッシュの様な者が着いてしまえば、同じく無用に失われる命や人権は凄まじい。しかしこれは、実際は民主主義に見せたテクニカル独裁に近いので、つまりそういう事である。
独裁者的存在は、ブッシュではない。彼はほぼ単なるプレイヤー、演者に過ぎない。
つまり、現在の世界構造では民主主義を謳う方ですら民主化を形骸化し実際これを為していない。ただ、そう言えば独裁国家だとか歴史上の封建国家でも重臣等による会議は為されもするものでもあるが。
しかし、やはり土台としては民主主義形式が望ましい。民衆により選挙された代表達が政治を行う。国民はその選挙・被選挙権を持つ。
極端なハイリスクを可能な限り回避する為だ。
つまり、
何れにせよ、極めて重要であり大切なのは、結局前から述べる通り教育なのである。
個人の鍛錬により選出レベルの向上が計られ、公(オオヤケ)の政治が高い質を保守、改革する事が出来る。
また、前述イデオロギーもそうなのだが、それ以上に遥かに宗教というものは多種多様な、それこそ民族宗教から世界規模の大宗教にカルト宗教まであり、性質的に政治阻害を極めて起し易い。公というものは情も酌量しつつ、しかしやはり法という理性によりこれを公平に扱わねばならない。
民主政治における政教分離の原則は(別に歴史を観ても、例えば日本の封建時代でも宗教集団による政治介入は必ずこれは嫌われ、時に激しく退けられた。)、最低限守るべき倫理であると思う。
ただ、各国々による歴史的な歩みというものもあるので、民主政治でない、とミサイル打ち込みに行く様なものは暴挙であり、自国に、或いは世界的に多大な害悪を撒き散らすものでなければとやかく言うものでないのかも知れない(例えば古い宗教の穏やかに存在したチベットやブータンの様な国をわざわざ掻き混ぜて、それで一体何になるのだろう。現在進行形の中共チベット侵略は人類の恥である。)。それぞれの国、地域にはそれぞれの歴史背景や伝統文化があり、これは尊重すべきである。
共産・社会主義による宗教の徹底排除という考え方は極端すぎるもので、これはまたやり過ぎである。カルト教団の様に集金から労働力搾取からエゴ飛散、スパイの温床の様になるものは洗脳中の信者を含め誰にとっても迷惑でこんなものは当たり前に取り締まらねばならない。しかし、例えば既存大宗教でも巨大集団構造で抗争でも始めなければ、温和で分をわきまえた穏やかな宗教というものも人には安らぎを与えるものであるとも思う。あっていい。
ただ、政教分離が守るべき原則、倫理であり、これはより良い政治が行われる為の方法や節度である事を忘れてはならない。でなければ、あらゆる宗教団体が政治介入して乱立する事すら可能となってしまう。カルト系など論外であり、問題と確執の乱発温床にしかならない。しかしまあ、これは本来宗教規制の範疇であり、それは宗教界は無法地帯であっては決してならないという単純明快な事である。
まず、宗教は政治に介入する事はなく、人々の心の平穏、文化的な背景や滋養として大らかに在るべきで、そうあって欲しい。
皆がその最低限のルールを守ればそんな無用な問題で揉める事も無くなり、つまりは最低限の守るべきルール、それは言い換えれば規制でもあるが、互いに守るべきその尊厳の上に自由というものはあるのは、また同じ事なのである。
<08/9/15〜20>
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