本稿は前項目の流れを汲む続稿。/※注:この項目における出来事、事象、また執筆は更新日時現在のものではありません。お取違えなされませぬよう詳細は右に。<書き出しはこれの方が遅い。あと、追記追記で時間がかかった。07/11/下旬だが12月下旬から1月初旬まで追記改編にかかったはず。総じてしんどいものだったが、それなりに意義のあるものとなった気がする>
追記:
気になったので追記するが、人間社会の「ミクロ単位」で起こる、そういった過去の虐待経験が深く関連するかと思われる事例では、殺人、強姦、傷害などの極めて卑劣な重犯罪には必ず厳罰をもって処すべきであると考える。これは、国や民族という実に形のないものを、精神疾患と併せて考察したものとは相当に意味が違う。マクロにはそんな事は不可能であるし、もしそうするとしたら世界中が要刑罰となる。であるから、実体が無い、人の業、的に人類そのものが背負う罪には、大乗的に、冷静な歴史的アナライズ(分析)と現状に対処する治療法(負の連鎖を断ち切る事)こそが必要であると思うのである。それは本来ミクロ単位の人間においても同じ事ではあるが、やはりマクロとミクロでは違ってくる。
国以上の捉え方をするならば、今の世界はまだ未成熟でそこまでのシステムを構築し得ていない。少なくともこれだけは許されない、という最大公約数だけでも完全に行使出来る世界機関が必要なので、それがUN(国連)だ、とする方もいるかもしれぬが、残念ながら現在のUNにそこまでの力も公正さもない。国益や価値観、エゴ、それらがぶつかるのは当然だが、だとしても特定国の思惑に大きく左右されてしまう現在のシステムでは、出て来る結果は公正さに似せた異なるものでしかない。であるから、例えば数稿前でも触れた小沢一郎の考え方も、実に惜しいのだ。原理的に悪いものでない(と思うのだ)が、やや拙速で、そもそもの前提となる世界機関がまだ存在しない。リアルを飛び越えてしまっている。
だから私は、今、例えばEUが見せているものに次なるステップの光明を見ている。現実的に何とか成立させて、進めているそれはつまりリアリズムにも添っているのであり、そうやって人の最低限守るべきとする最大公約数を、社会から国、EUの様な幾らかの国の集まりへと、少しずつ、多分に平和的に広げてゆく事が、現状に対処する方法、負の連鎖を断ち切る為のシステムの構築として望ましいのだと。それは同時進行として、アジア、中東、北南米、アフリカでだって起こしていけてもいい。無論、何か間違えてその大きな単位が独善的なエゴを世界に押し付ける様になってしまうだとか、その単位で争ってしまっては元の木阿弥なのだが、そこまで大きな単位で戦争、という様な真似をすればそれこそこれは世界の破滅を意味するものであり、そこまで進め得た人々がそんな愚かな選択をする可能性も低くなるのでないだろうかとも思う。
ああ、そう、ミクロ単位の問題だが、
追記:
気になったので追記するが、人間社会の「ミクロ単位」で起こる、そういった過去の虐待経験が深く関連するかと思われる事例では、殺人、強姦、傷害などの極めて卑劣な重犯罪には必ず厳罰をもって処すべきであると考える。これは、国や民族という実に形のないものを、精神疾患と併せて考察したものとは相当に意味が違う。マクロにはそんな事は不可能であるし、もしそうするとしたら世界中が要刑罰となる。であるから、実体が無い、人の業、的に人類そのものが背負う罪には、大乗的に、冷静な歴史的アナライズ(分析)と現状に対処する治療法(負の連鎖を断ち切る事)こそが必要であると思うのである。それは本来ミクロ単位の人間においても同じ事ではあるが、やはりマクロとミクロでは違ってくる。
国以上の捉え方をするならば、今の世界はまだ未成熟でそこまでのシステムを構築し得ていない。少なくともこれだけは許されない、という最大公約数だけでも完全に行使出来る世界機関が必要なので、それがUN(国連)だ、とする方もいるかもしれぬが、残念ながら現在のUNにそこまでの力も公正さもない。国益や価値観、エゴ、それらがぶつかるのは当然だが、だとしても特定国の思惑に大きく左右されてしまう現在のシステムでは、出て来る結果は公正さに似せた異なるものでしかない。であるから、例えば数稿前でも触れた小沢一郎の考え方も、実に惜しいのだ。原理的に悪いものでない(と思うのだ)が、やや拙速で、そもそもの前提となる世界機関がまだ存在しない。リアルを飛び越えてしまっている。
だから私は、今、例えばEUが見せているものに次なるステップの光明を見ている。現実的に何とか成立させて、進めているそれはつまりリアリズムにも添っているのであり、そうやって人の最低限守るべきとする最大公約数を、社会から国、EUの様な幾らかの国の集まりへと、少しずつ、多分に平和的に広げてゆく事が、現状に対処する方法、負の連鎖を断ち切る為のシステムの構築として望ましいのだと。それは同時進行として、アジア、中東、北南米、アフリカでだって起こしていけてもいい。無論、何か間違えてその大きな単位が独善的なエゴを世界に押し付ける様になってしまうだとか、その単位で争ってしまっては元の木阿弥なのだが、そこまで大きな単位で戦争、という様な真似をすればそれこそこれは世界の破滅を意味するものであり、そこまで進め得た人々がそんな愚かな選択をする可能性も低くなるのでないだろうかとも思う。
ああ、そう、ミクロ単位の問題だが、
それは、事実関係が明らかである、明らかに一線を超えた凶悪犯罪には信賞必罰をもってあたらないと、今度はそれこそが現状対処(負の連鎖を断ち切る事)を破綻させる事ともなる。つまり凶悪犯罪を行っても割得を思わせてしまうかの様な踏み倒し文化を蔓延らせる事になってしまう。これは絶対あってはならない。極論、私は、死刑制度もあって然るべきだと思う。それがどうしてもあってならないと言うのならば、終身刑の導入など、一線を越えた犯罪に対して厳罰をもってあたるシステムを用意しなければ、それは完全な不公平が産まれる事になる。自らの欲望や思想の為に利己的に他人の生きる権利を奪った人間が何故か過剰保護されてのうのうと生きる様な、そんな馬鹿な話はあってはならない。それが例え、もしその成長過程に虐待経験が見られるなど重度のPTSD等が存在したと疑わしき場合でも、やはり越えてはならない一線というものがある(また、反社会的人格・性質を人格障害と捉えるのも可能だろうが、正直その辺はそこまでいくと現状は無理があるとも感じる。医学が更に発達してその全容を見たのならば、またそれらも変わって来るかも知れない)。
前述したが、不平等、不公平、不公正は必ず確執を産む。法のシステムにそんなものを横たわらせるのは、完全なる政治の怠慢であるというべきだろう。言い換えれば、これはマクロに見ると、司法による公平性が負の連鎖を断ち切る一つの治療なのである。その上でペナルティーは、国だとか、既に確立された大きな単位が行使するべきで、個人や、言うなれば小さな単位に集束する方向であってならないのだと、そう思うのである。
とにかく、司法がウッカリとその辺で間違った判断を見せると、悪い連中といえばまた必ず、容疑者の過去に重大な被虐待経験が、などと、心神耗弱といったものと共に、それをまるで免罪符の様に振り回し出す事だろうから。
この辺りについては、割と纏められたのではないかと思う項目があるのでそちらも参照頂ければ幸いである。
しかし何だか話が物凄く発展し過ぎてしまった
まあ、あの時自分がどう考えていただろう
そういった記録の意味もあるので。
(※08/03/12追付記:つい最近の問題案件で、夫殺しの被告についての裁判で弁護側がそんな話を持ち出している。まあ予想通りに捏ね繰り回してくれる事だこと。それらが間違いなき事実ならば、それは幾分の酌量余地として鑑みられる事があったとしても、無罪の論拠としては実に暴論だ。「心神耗弱」と共にこれらを免罪符の様に振り回すそういった行為は、まさに司法の頽廃である。)
(※08/07/8追記:猟奇事件、凶悪犯罪等における裁判、その弁護においてことごとくに振り回される、精神鑑定による「責任能力」云々は本当に異常ではないだろうか。本文中にも述べた通り、凶悪犯罪を起す人間の精神状態が正常であると認定する方が難しいのであり、もしそういった反社会的人格や性質を一種の人格障害として捉えるならば、須らく疾患・一時疾患状態なのである<それはそれで現状としてはどうかとも思うが>。つまり、ここは責任能力を云々するポイントではないのでないかという事。責任能力云々については本文末尾に付加したリンク中にも示した様に、「マインドコントロールや第三者による強制的な薬物投与による錯乱状態」といった様な極めて特殊な状況が責任<能力?>の有無の論点であるべきでなかろうか。精神鑑定はそういったものの上で、ケース分析、精神医学の発展や犯罪抑制、人々の健康や治安、幸せなど社会の改善に貢献するものとして存在するのが最も相応しいと考える。
前述追記案件等もだが、山口県光市での、遺族の心情を慮ると本当に、、その裁判経緯自体がどれだけ辛く、更なる怒りや悲しみをもたらしもしただろうと、そう思わずにはいられない事案に、ようやく正しい司法の判断が下されたのではないかと、そう思う。最高裁の審理差し戻し判断、広島高裁の判決は実に真っ当なものだったのではないだろうか。それが最も必要な司法において、公平・公正な判断がなければ、それは新たな憎しみ、「負の連鎖」を産んでしまうだけなのだ。私は、そう思います。)
前述したが、不平等、不公平、不公正は必ず確執を産む。法のシステムにそんなものを横たわらせるのは、完全なる政治の怠慢であるというべきだろう。言い換えれば、これはマクロに見ると、司法による公平性が負の連鎖を断ち切る一つの治療なのである。その上でペナルティーは、国だとか、既に確立された大きな単位が行使するべきで、個人や、言うなれば小さな単位に集束する方向であってならないのだと、そう思うのである。
とにかく、司法がウッカリとその辺で間違った判断を見せると、悪い連中といえばまた必ず、容疑者の過去に重大な被虐待経験が、などと、心神耗弱といったものと共に、それをまるで免罪符の様に振り回し出す事だろうから。
この辺りについては、割と纏められたのではないかと思う項目があるのでそちらも参照頂ければ幸いである。
しかし何だか話が物凄く発展し過ぎてしまった
まあ、あの時自分がどう考えていただろう
そういった記録の意味もあるので。
(※08/03/12追付記:つい最近の問題案件で、夫殺しの被告についての裁判で弁護側がそんな話を持ち出している。まあ予想通りに捏ね繰り回してくれる事だこと。それらが間違いなき事実ならば、それは幾分の酌量余地として鑑みられる事があったとしても、無罪の論拠としては実に暴論だ。「心神耗弱」と共にこれらを免罪符の様に振り回すそういった行為は、まさに司法の頽廃である。)
(※08/07/8追記:猟奇事件、凶悪犯罪等における裁判、その弁護においてことごとくに振り回される、精神鑑定による「責任能力」云々は本当に異常ではないだろうか。本文中にも述べた通り、凶悪犯罪を起す人間の精神状態が正常であると認定する方が難しいのであり、もしそういった反社会的人格や性質を一種の人格障害として捉えるならば、須らく疾患・一時疾患状態なのである<それはそれで現状としてはどうかとも思うが>。つまり、ここは責任能力を云々するポイントではないのでないかという事。責任能力云々については本文末尾に付加したリンク中にも示した様に、「マインドコントロールや第三者による強制的な薬物投与による錯乱状態」といった様な極めて特殊な状況が責任<能力?>の有無の論点であるべきでなかろうか。精神鑑定はそういったものの上で、ケース分析、精神医学の発展や犯罪抑制、人々の健康や治安、幸せなど社会の改善に貢献するものとして存在するのが最も相応しいと考える。
前述追記案件等もだが、山口県光市での、遺族の心情を慮ると本当に、、その裁判経緯自体がどれだけ辛く、更なる怒りや悲しみをもたらしもしただろうと、そう思わずにはいられない事案に、ようやく正しい司法の判断が下されたのではないかと、そう思う。最高裁の審理差し戻し判断、広島高裁の判決は実に真っ当なものだったのではないだろうか。それが最も必要な司法において、公平・公正な判断がなければ、それは新たな憎しみ、「負の連鎖」を産んでしまうだけなのだ。私は、そう思います。)
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