お久し振りである。
とは言っても、大変な量のメッセージがこぼれる様に溢れていたものであるから、
風の噂に多少を見聞きしては居たし、空の雲が動き、草がたなびくので、必ずしもそうでない事もあるのかも知れないが。
さて、
私はある理由があって、しばし沈黙した。
その意味がお分かり頂けただろうか。
物事には、きちんと事情を説明をしなければならない時がある。
また誰かに何かを頼む時には、ちゃんと礼儀や通すべき筋というものがあって、よしんばそれが出来ないにしても、
それでもやはり最低限やってはならない振る舞いや行いというものがあるのだろう。
度が過ぎると、例え如何に温厚な者でも恐らくうんざりしてくるのだ。
そしてそれらに手前勝手な屁理屈ばかりを幾ら並べてみても、本当は分かるだろう。自分の心に聞いてみれば善い。
もうどこから手をつけてよいかと悩むが、段階すらをもわきまえずそして盗む様な真似や、悪しざまに利用せんとするだけの表層的もの自体にもあるが、総体的に言って人の信頼や信義にもとる様な行為は、幾ら屁理屈を並べた所でそれはまやかしで、そんなことでは本当に大事な時に、本当に大切な事が人の心に伝わらない。
こういう私とて、実に色々とダラしがないので、それはそんなに、息も詰まる様な聖人君子的な事を指し細かい些末に目くじらを立てているのではない。それもこれも、というよりもこの稿全体が、最低限の、という話である。
しかしながら、何かが変わって来ているのも感じられる。
そんな声が聞こえるのだ。
その声には希望へと向かう生気の張りが帯びはじめ、光が輝きはじめている。
これは気のせいではないと思う。
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私は、ある理由があってここをとめた。
今はそれが必要だと判断したからである。
「世の人は われを何とも 云はばいへ わがなすことは 我のみぞ知る」
これは坂本龍馬という男がいつの時か詠んだ歌だそうだ。
何と言うか、傷付いた哀しみ、意地、誇り、拗ねた様な怒りから苛立ちまで感じられる気がしたものだが、
何だかこんな歌を思い出したりもした。少し、分かる気がしたのである。
そんな気持ちが全く無かったといえばそんな事はないが、しかしながら理由は他にある。
それにしてもまあ、アレやコレやとある事ない事、興味本位や悪意をもって余りにも野方図に言われたりするものであるから(コレ自体も現代の問題点そのものか)、流石に幾分は傷付いたり、結構嫌な思いもするのではあるが、この辺りは大して気にならない様にコントロールする事が割と出来るので左程どうとも思わない。しかしその中でも、やはり応援してくれる声や理解しようとして言われている事は、それが疑問でも違っていたとしても、結構単純にそれはそれで嬉しいものである。ただ、プライベートなものから、先に挙げたその信義にもとる行為から、もうゴチャ混ぜで際限がないものであるから聞きたいのだが、私は公人なのだろうか?
そうだったとしたら、多少はしかたないかと思わないでもないが、、、
いや、しかしながらもしそうだったとしても許されない様なレベルのものまであるからだ。
どれだけ、その信義にもとる行為を「多少の事は、、」と我慢し、飲み込んでいたか知っているかな?
しかしそうするうちに、どんどんと歯止めが効かなくなってる様子を見るにつれ、
やはりこれは、この時に限らず全てにリンクする大切な事に直結していると判断するに至ったのである。
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もう何も言わないのか、怒っているならそれでもいいから何でも言ってよ、やめないで、
うん、では言おう。それは元々そのつもりであったし、
刻々と時間が過ぎる今はあまり時間が無いし面倒なので、本当は文句だったら山ほど言えるが(笑)、まあ、肝心な所と、もうちょっと、程度に留めておこう。で、
そもそも、何時「やめる」と言っただろうか?
まったく、早とちりなのだ。
だいたいから、守り人、変人、心の傷付いた可哀想な人、ヒーロー、正義の味方になりたい馬鹿、自分が一番頭がイイと思っている、闘将、〃がヘコタレた、オタクになった、無責任、放り投げた、頑張ってよ、ダラしない、1番になれ、責任が嫌だから2番がいいんでしょ、プレッシャー、期待、何を考えてる、変人、分からない、やめないで、もう何も言わないの?、、、、、
まあ、こんな拙文を知らぬ人が見ても何を言っているのか分からないだろうし、これはその様にしているのでいいが、
中には何となく分かる様な気がしないでもないものもあるが、言われている私ですらよく分からない事も多々ある(苦笑)。
基本単純なので、応援してくれる声はやはり嬉しかったりする訳だが、それはちぃと小恥ずかしいので有難く、むしろ胸に留めておこう。
ただとにかくまあ少し思い出しただけでも、、、上げたり下げたり忙しい事だ…。
そして、相変わらずであるから事情はよく分からない事もあるし、また諸々に極めて不便、且つ、その現状がしっかり把握出来ないと解決出来ない事もある。だから、言っておいたのだ。古から、そういえば身近な物事でも、ああ、あの時ちゃんと話しておけば、もっとどうにかなったかも知れないのに、、という事が如何に多いかと。ただ、何事も善い方向へ改善してゆくのに遅過ぎるという事はあまりない。いつだってやれるのだ。
それらの事を、分かって欲しかったのである。
そして今回のは、当たり前だが黙ってはいられない。
当然、サミットを前に控えた、拉致関連の妙な動きである。
取り急いで次の原稿で行く。当然の事を書くまでだが。
そして、もちろんサミットにしろこれらの協議にしろそれ以降の事についてもやる。
だが、直近は中々差し迫っているし、やれる事や特に何かあるならばゴチャゴチャ言っていないで早馬メールにでも連絡して欲しい。
それでもって、手伝ってくれる人がもしいたら、同じく是非連絡を頂きたい。
所で、沈黙の意味は、
そういう事だからヘコタレたとか、諦めたとか、拗ねたとか、そんなものではない。
また、世の中そういった事で思う様に人を操れる事もあるのだろうが、圧力、脅し、洗脳、利益、目の前に金を積んでも、何れもその人にはほとんど通用しない。それはもう分かっただろう。変人と言われても、そういうのを変人と言うんだったら別にそれでいい。これも分かって欲しかった事の一つだが、そういう妙な角度からでは押しても引いてもテコでも動かない変人が、スッと動いてくれる方法が一つだけあるのだという事。それは、
誠意をもって、本当の心を正面から伝える事。ただそれだけなのである。
そしてきっとその方法は、変人に対してでなくとも多くの人にも伝わる事なのだ。
まあ、あくまでも程度の話であって、「醤油取って」という様なものに誠意も糞も無かろうし、そんな事を言うのは本物の変人である。
後は何れにせよ、善からぬ事には与しない、という事だけである。
そう。とにかくそういった様に、気付いては焦点を変え、透視か遠視でもするかの様にグルッと見回して見ては愕然とするのである。
もう、政治、行政、司法だろうがメディアだろうが、経済界だろうが、芸の世界だろうが、宗教だろうが、
至る所にニセモノが蔓延って嘘やエゴが張り付き、その負(フ)が負を呼ぶ連鎖反応で、真っ当が真っ当でいられなく、普通の人や正直者が損ばかりして隅に追いやられそうな、それはもうまるで「やったもん勝ち」的「踏み倒し」思想感覚の蔓延である。それは何度も言って来た事だがつまり、
本当に「最低限の」ルールやモラル、
それさえもが社会は分からなくなって来つつあるという現実。或いは麻痺しているとでも言うべきなのだろうか。
「流石にこれは人としてやったらあかんやろう」というレベルの事を、簡単にその一線を越えてしまう。
本当にその一線が全く分からないのならば、それはもう根本からの問題で、一体全体その生の過程における教育や道徳はどうなっていたのかという事を見直さなければならない。必ず、希薄だろう。或いは、何らかのショックで精神に異常を来している。
その辺りの対処などがマクロとミクロでは違ってくるだろう、という事は以前述べた。人としての越えてはならない究極一線、についてでもあったが、その手前には様々な物事において何本も予防線があり、それはそれぞれに法や倫理というものがcrimeやsinについての越えるべからざる一線を引いている。まあ、最初から釘を刺してある様に、ここでは軽微なものについてではなく重大なものについてであるが、何れにせよそれらを充分に機能させるのが信賞必罰という当たり前の姿勢である。これを崩壊させてはならないのだ。
また、本当に全くその一線が分からないというのは稀なケースで、大概の場合は、本当は分かっているのである。
しかし欲やエゴに取り憑かれて麻痺してくると、あれやこれやと屁理屈を並べては、下手をすれば自分にさえも嘘を付くのである。
だから、人は誇りを持つべきなのだ。
「恥を知る」という事は「誇りを持つ」という事であり、「誇りを持つ」という事は「恥を知る」という事。
これらを捨ててしまうという事は、つまり自分自身をも貶めて傷付けているのである。
別にちっぽけな誇りでも善いのだ。今が辛かったら、
腐っても鯛、武士は食わねど高楊枝、ボロは着てても心は錦、
何だか切ないが(笑)、そんな感じでも多分いいのである。
そうやって自分を励ますのだと、私はそう思うので時々そうやっている。
不公正、不公平に厳正に対処する法という道具と、それを使う人の心の両輪である。
自由というのは、そういった越えてはならない一線の上にある。
そしてまた、人間という存在に完全なる善や悪とは恐らくありはしないだろうという事。
絶対的なそれは神や仏、天使や悪魔とでも言うべき存在であり、そんな人間は存在しない。
それは恐らく、人が望み、また恐れる、人の性(サガ)を極限に捉えた写し見の存在なのだろう。
返せば、完全な善もなければ、完全な悪の人間もいないのだ。
人は常に光と闇を併せ持つ存在である。
と、私は、そう思っている。
つまり言うなれば、
神や仏というものは、いるのならば人の、あなたの心の中にいる。
誤摩化そうが嘘を付こうが、人はそこから逃れる事は出来ない。
政治や教育、或いは道徳といったものが導くべきは、そういった人の善なる性質を出来うる限り伸ばし育てる事にあり、悪なる性質を野放しにしない事である。個人の内なるそれも、マクロ社会のそれでも、闇を野放しにすれば、その闇はどんどんと肥え太り、光を奪い去ってしまう。
簡単に例えるなら、悪い事やズルい事ばかりする商売がのさばればのさばる程、その悪い店は儲けて業績を上げ力をつけ、普通や正直に頑張っている店はとても太刀打ちできなくなってしまう。そうなればどんどんと悪い店が増え、そうでない店が潰れ、あたり一面、悪い店だらけになってしまう。どこに買いに行っても土壌汚染や病気の疑いのある野菜や肉かもしれない。そんな状態になったら、みんなそれを食べるの?
と、
極端だが、基本どんな物事においても同じ事である。
そしてまた、許す事が肝要でもある。
信賞必罰。
その厳正なるルールが必ず守られる上において、一度道を踏み外した者がその罪を償ったのならば、
寛容なる心でこれを許し、受け入れる事が社会に求められる。
(※ただし以前も指摘したが、他人の命、生きる権利を自らの身勝手な欲望やエゴで奪うなどといった凶悪犯罪、人間として最後の、究極の越えてはならない一線を犯した者は例外で、これに生きる権利は存在し得ないだろう。故に、これも法により極刑をもってあたるべきなのである。この辺りは以前の原稿を。)
許すという事は中々難しい。
しかし、その寛容な心が人に全く無くなってしまうと、一度道を踏み外した者は、もう何処にも居場所を失ってしまう。
そう思って罪を犯さぬ事が何よりだが、人とは光と闇を併せ持つ危うい存在なのである。
だから、間違いを犯してしまう事はある。
政治や教育(家庭・学校・地域社会)がまず、人の善なる性質を伸ばし、
それでも間違いを犯した場合は、
厳正なる法のシステムで誰もが公平に裁かれ、罪を犯したならばこれを完全に償い、
その上で、
人々や社会が育んだ寛容な心によりこれを許し、受け入れる。
罪を償う時点での、再犯防止プログラムや、何がしの精神的病理(薬物依存なども特にそう)がある場合には医学的な治療も重要であり、
よく言われる様に、職業技術の訓練なども実に善い事なのだろう。
本当に当たり前の事なのだが、これらの事に徹底して取り組めば、不条理な悲しみを強要されてしまう人が減り、
多くの人々が救われる。
ただただ厳しく罰して終わり、でも救いがなく
ただただ許しを請う身勝手な博愛主義でもいけない
(08/6/25)
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