同じく本稿は前の流れを汲む。/※注:この項目における出来事、事象、また執筆は更新日時現在のものではありません。お取違えなされませぬよう詳細は右に。<07/11/6|08/02/15僅かに改訂、付記>
余談:
前述した関ヶ原のくだり、宇喜多勢を率いて奮戦したのは、以前何度か触れた明石元二郎、その御先祖といわれるあの明石全登である。
そして、中山道の徳川本隊を手玉に取り翻弄して関ヶ原に遅参せしめた稀代の謀将・真田昌幸とは、もちろん真田幸村(信繁)の父親である。
そして更にその父親といえば、現在大河で描かれる上杉と武田の戦い、山本勘助のドラマ「風林火山」にも登場する武田家の謀将・真田幸隆でもある。幸村の息子、大助は父と共に大坂に入ってまだ若くに散った為、あまりその才を発揮する事が出来なかったが、彼も利発で将来を嘱望されていたらしい(父の幸村も同じで、大坂の陣に至るまでは父の名に隠れほとんど無名だった。)。おまけだが、容貌まで秀麗であったともいう。
余談:
前述した関ヶ原のくだり、宇喜多勢を率いて奮戦したのは、以前何度か触れた明石元二郎、その御先祖といわれるあの明石全登である。
そして、中山道の徳川本隊を手玉に取り翻弄して関ヶ原に遅参せしめた稀代の謀将・真田昌幸とは、もちろん真田幸村(信繁)の父親である。
そして更にその父親といえば、現在大河で描かれる上杉と武田の戦い、山本勘助のドラマ「風林火山」にも登場する武田家の謀将・真田幸隆でもある。幸村の息子、大助は父と共に大坂に入ってまだ若くに散った為、あまりその才を発揮する事が出来なかったが、彼も利発で将来を嘱望されていたらしい(父の幸村も同じで、大坂の陣に至るまでは父の名に隠れほとんど無名だった。)。おまけだが、容貌まで秀麗であったともいう。
また、昌幸の奇策により(自身と次男・幸村は西軍、長男・信之は東軍、と西東軍両方に命脈を分け残す。実際人質/出仕時代の影響もあり、その様にまた信之の嫁が本多忠勝の娘であり、幸村の嫁が大谷吉継の娘であった、という側面も考慮に入れた策であるに違いなかろう)東軍側に付かせた長男・信之の松代藩真田家はその江戸期もくぐり抜けた。これは昌幸や幸村ほどの派手さは無いが、信之公が如何に政治的手腕に優れていたかをも窺わせる。つまりそれは、真田と言えば、家康、徳川家は何度も何度も対峙しては、寡兵(少ない兵)をもって叩きのめされるなどと、煮え湯ばかり呑まされた仇とも言っても過言ではないからでもある。
昌幸に上田城攻略で数度。後の中山道行軍の第二次上田城攻略戦でも、徳川軍は何れも2千程度の寡兵に掻き回され完封なきまでの敗北を喫している。更には後の大坂の陣で、紀州は九度山に幽閉されていた真田が脱出、大阪城入りを果たした際、「(入ったのは)親か?子か?」と昌幸の大坂城入りを恐れて震え上がり、名声の無い子の方だと分かって安心したのも束の間、その、子である幸村に数多の戦局でも破られ散々に悩まされいる。そしてその後の夏の陣で今度は幸村が、毛利勝永、明石全登らを指揮して共に家康軍を突きまくり、本陣に突入、家康を本当に震え上がらせる事となる。その勢いたるや凄まじいものであり、恐れおののいた旗本集が逃げ散ってしまった家康は本気で自害しようとした程であったが、側近に止められ翻意しほうほうの体で逃げたと言われる。悪運の強い爺様だ(笑)。
実際の政治的大勢、軍事的戦力差から考えると本当に信じられない程の戦果を彼は上げ、
彼の名は一躍、親父や爺様を抜くかという程の軍神として伝説化した。
幸村が最後の戦いで力尽き、戦死した時も後に、
幸村の才覚、武運にあやかりたいと、諸将がその遺髪を欲しがって群がり、取り合ったという程である。
<安房守の嘆き>
黒田如水らと並ぶ当代きっての謀将・昌幸は、大坂城に入って再び家康を蹴散らす事を熱望したが、病により没し、それは叶わなかった。
その病没する前に、「徳川を破る策がこの頭の中にあるが、その策を成すにはお前(息子幸村)では無理だ」と嘆いたという。それは、幸村が自分より才覚に劣っているという意味ではなかった。幸村の才覚は昌幸も信之も認める所であり何の遜色も無いが、昌幸のその策には、昌幸の名を必要とした。
それは籠城策でなく野戦によるものであり、その大胆な策を採択させるには自分の名声が必要であると判断したのであり、結果、その通りとなった。もし、昌幸が存命で大坂城入りしていたらのならば、本当にどうなったか分からない。
或いはその前に、
諸々相まって準備不足の面も否めなかった関ヶ原への決起について、昌幸は三成に「何でもっと早く、事前に相談してくれなかったか」と手紙を送っている。ここでももし、三成、大谷吉継、直江兼続、真田昌幸といった天才達が事前にもっと計り合わせる事をしていたら、完璧な西軍の勝利となっていたかも知れない。
まあ歴史にもしもし言っても仕方無く、科学的でないのだが、
私は歴史科学を専門に研究し生業とする学者でもないので、時々、思い出しては想像を廻らせてしまうのだ(笑)。
<直江山城>
直江兼続とは、上杉家の家臣。陪臣ながら米沢30万石を禄した大身、上杉の棟梁であり、関ヶ原時に東北地方で東西から家康を挟撃せんと西軍に呼応し、伊達や最上らと戦った。「悪辣、卑怯な家康めこれでもか!」と言わんばかりに筆を振るって啖呵を切った「直江状」が有名である。そしてその際、あの歌舞伎者として現代でも有名かつ人気の高い武将である前田慶次は、「今の世に男というのは上杉の直江をおいて他にない」と男惚れしてその旗下に馳せ参じて戦ったいう。
<大谷刑部>
大谷吉継が非常に優秀であったのは当時から知られた事であったが、関ヶ原においての分析と判断は実に的確であり、彼が一番捉えていた天才なのではないかとすら思える。彼は、例え決起しても三成の率いる西軍は敗れると当初から予測し、彼を止めようとした。しかしながら、頭が良いくせに正義だとか、青臭い事ばかりいう三成が非常に頑固である事を知っている彼は、その決意を説得し変える事が出来ないと判断すると、親友の為に死ぬ覚悟をもって力を貸した。しかも、吉継は小早川秀秋の裏切りの可能性を相当強く警戒予想しており、そのような布陣をしており、結果としてその通りに秀秋が寝返った。そうすると、大谷勢は猛り狂う悪鬼の如くに秀秋勢へ攻撃を浴びせ、何度もその大軍を押し返したという。しかし後、流石に寡兵の不利は如何ともしがたく、大谷勢の壊滅と共に彼も自害して果てた。
彼らについては、正直まだまだ書きたい事がある。
だから、後にまた書くかも知れない。
この他にも、立花宗茂だとか、あとの大坂五将や木村重成、三成に過ぎたる者と言われた島左近だとか。
そういった様に、私は徳川方でなく毛利(石田)方、秀頼(大坂)方、とその反対側に付いた人物にばかり魅力を感じてしまうのだ。
返して徳川方の武将には、本多忠勝や正宗、伊達方などに面白いなと思う傑物も居るが、総じてあまり魅力を感じない。
まあ、単に私がへそ曲がりなだけかも知れないが。
<更に余談>
それにしても、
これら一連を書きながら、織田信長的要素もあると思ったが小沢一郎には石田三成的要素が強いと感じる様になった。
三成とは、大変な切れ者で有能であったが、時に正義だとか言う青臭い面があり、不正に対しても非常に潔癖であり、それは他人の事でも許せなかったという程で、また頑固、こうと思った事にはかなり手段は選ばない、とこの様に人物的にかなりクセがあったと見え、例えば親友の大谷吉継も、その彼の横柄さが仇を為すと苦言した様に、敵を多く作った。しかしながら、認める人間は彼をそれでも好んだととも見える。
小沢一郎に、最初の方の正義だとか言う青臭さや、不正に対する非常な潔癖という部分は恐らく総じて当たらず、それらはどちらかと言えば安倍晋三の範疇である。
小沢さん、もしそうだったら、あなたもやっぱり一人ではいけない。
大谷吉継や直江兼続、真田昌幸などを見付けられたし。
つまりは同等に策を講じる事のできる切れ者の仲間、これで切れ者が陥り易い独断を避け、
もしくは、氏に欠けた点であるアクの強さ、説明下手を補う人材である。
確かにどこを見ても人材とは足りないものだが、
足下の民主党にだってそれなりの人物はいるのではないかな。
例えば若手だって良いのだ。若いからと馬鹿にせず諮ってみたらどうだろうか。
長島とか。育てればものに成りそうな人材が他にも居なくも無い。
無論、自民党の優秀な方々にも同じ事を進言したい。
メモ:
ともすれば人は虚勢を張ってしまうこの現代社会においても、これは難しくちょっと耳の痛い逸話でもあるか。
武士道なのかな。格好良いなあ、と思ってしまうこの感覚が軽薄だろうか(笑)
昌幸に上田城攻略で数度。後の中山道行軍の第二次上田城攻略戦でも、徳川軍は何れも2千程度の寡兵に掻き回され完封なきまでの敗北を喫している。更には後の大坂の陣で、紀州は九度山に幽閉されていた真田が脱出、大阪城入りを果たした際、「(入ったのは)親か?子か?」と昌幸の大坂城入りを恐れて震え上がり、名声の無い子の方だと分かって安心したのも束の間、その、子である幸村に数多の戦局でも破られ散々に悩まされいる。そしてその後の夏の陣で今度は幸村が、毛利勝永、明石全登らを指揮して共に家康軍を突きまくり、本陣に突入、家康を本当に震え上がらせる事となる。その勢いたるや凄まじいものであり、恐れおののいた旗本集が逃げ散ってしまった家康は本気で自害しようとした程であったが、側近に止められ翻意しほうほうの体で逃げたと言われる。悪運の強い爺様だ(笑)。
実際の政治的大勢、軍事的戦力差から考えると本当に信じられない程の戦果を彼は上げ、
彼の名は一躍、親父や爺様を抜くかという程の軍神として伝説化した。
幸村が最後の戦いで力尽き、戦死した時も後に、
幸村の才覚、武運にあやかりたいと、諸将がその遺髪を欲しがって群がり、取り合ったという程である。
<安房守の嘆き>
黒田如水らと並ぶ当代きっての謀将・昌幸は、大坂城に入って再び家康を蹴散らす事を熱望したが、病により没し、それは叶わなかった。
その病没する前に、「徳川を破る策がこの頭の中にあるが、その策を成すにはお前(息子幸村)では無理だ」と嘆いたという。それは、幸村が自分より才覚に劣っているという意味ではなかった。幸村の才覚は昌幸も信之も認める所であり何の遜色も無いが、昌幸のその策には、昌幸の名を必要とした。
それは籠城策でなく野戦によるものであり、その大胆な策を採択させるには自分の名声が必要であると判断したのであり、結果、その通りとなった。もし、昌幸が存命で大坂城入りしていたらのならば、本当にどうなったか分からない。
或いはその前に、
諸々相まって準備不足の面も否めなかった関ヶ原への決起について、昌幸は三成に「何でもっと早く、事前に相談してくれなかったか」と手紙を送っている。ここでももし、三成、大谷吉継、直江兼続、真田昌幸といった天才達が事前にもっと計り合わせる事をしていたら、完璧な西軍の勝利となっていたかも知れない。
まあ歴史にもしもし言っても仕方無く、科学的でないのだが、
私は歴史科学を専門に研究し生業とする学者でもないので、時々、思い出しては想像を廻らせてしまうのだ(笑)。
<直江山城>
直江兼続とは、上杉家の家臣。陪臣ながら米沢30万石を禄した大身、上杉の棟梁であり、関ヶ原時に東北地方で東西から家康を挟撃せんと西軍に呼応し、伊達や最上らと戦った。「悪辣、卑怯な家康めこれでもか!」と言わんばかりに筆を振るって啖呵を切った「直江状」が有名である。そしてその際、あの歌舞伎者として現代でも有名かつ人気の高い武将である前田慶次は、「今の世に男というのは上杉の直江をおいて他にない」と男惚れしてその旗下に馳せ参じて戦ったいう。
<大谷刑部>
大谷吉継が非常に優秀であったのは当時から知られた事であったが、関ヶ原においての分析と判断は実に的確であり、彼が一番捉えていた天才なのではないかとすら思える。彼は、例え決起しても三成の率いる西軍は敗れると当初から予測し、彼を止めようとした。しかしながら、頭が良いくせに正義だとか、青臭い事ばかりいう三成が非常に頑固である事を知っている彼は、その決意を説得し変える事が出来ないと判断すると、親友の為に死ぬ覚悟をもって力を貸した。しかも、吉継は小早川秀秋の裏切りの可能性を相当強く警戒予想しており、そのような布陣をしており、結果としてその通りに秀秋が寝返った。そうすると、大谷勢は猛り狂う悪鬼の如くに秀秋勢へ攻撃を浴びせ、何度もその大軍を押し返したという。しかし後、流石に寡兵の不利は如何ともしがたく、大谷勢の壊滅と共に彼も自害して果てた。
彼らについては、正直まだまだ書きたい事がある。
だから、後にまた書くかも知れない。
この他にも、立花宗茂だとか、あとの大坂五将や木村重成、三成に過ぎたる者と言われた島左近だとか。
そういった様に、私は徳川方でなく毛利(石田)方、秀頼(大坂)方、とその反対側に付いた人物にばかり魅力を感じてしまうのだ。
返して徳川方の武将には、本多忠勝や正宗、伊達方などに面白いなと思う傑物も居るが、総じてあまり魅力を感じない。
まあ、単に私がへそ曲がりなだけかも知れないが。
<更に余談>
それにしても、
これら一連を書きながら、織田信長的要素もあると思ったが小沢一郎には石田三成的要素が強いと感じる様になった。
三成とは、大変な切れ者で有能であったが、時に正義だとか言う青臭い面があり、不正に対しても非常に潔癖であり、それは他人の事でも許せなかったという程で、また頑固、こうと思った事にはかなり手段は選ばない、とこの様に人物的にかなりクセがあったと見え、例えば親友の大谷吉継も、その彼の横柄さが仇を為すと苦言した様に、敵を多く作った。しかしながら、認める人間は彼をそれでも好んだととも見える。
小沢一郎に、最初の方の正義だとか言う青臭さや、不正に対する非常な潔癖という部分は恐らく総じて当たらず、それらはどちらかと言えば安倍晋三の範疇である。
小沢さん、もしそうだったら、あなたもやっぱり一人ではいけない。
大谷吉継や直江兼続、真田昌幸などを見付けられたし。
つまりは同等に策を講じる事のできる切れ者の仲間、これで切れ者が陥り易い独断を避け、
もしくは、氏に欠けた点であるアクの強さ、説明下手を補う人材である。
確かにどこを見ても人材とは足りないものだが、
足下の民主党にだってそれなりの人物はいるのではないかな。
例えば若手だって良いのだ。若いからと馬鹿にせず諮ってみたらどうだろうか。
長島とか。育てればものに成りそうな人材が他にも居なくも無い。
無論、自民党の優秀な方々にも同じ事を進言したい。
メモ:
真田信繁の人柄とは、(この数行部分は想い馳せながら色々散策している時にメモした引用なのだが、どこの方のページをメモしたのか忘れてしまい、大変ええかげんで申し訳ない。お気付きでしたら御一報を)
信之公によると、柔和で辛抱強く、物静かで怒る様なことは無いというおよそ勇猛な武将のイメージとはかけ離れたものであったようである。また信之は『幸村君伝記』において「幸村は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは見かけを必死に繕い、肩をいからしている道具持ちという程の差がある。」とも語っている。
ともすれば人は虚勢を張ってしまうこの現代社会においても、これは難しくちょっと耳の痛い逸話でもあるか。
武士道なのかな。格好良いなあ、と思ってしまうこの感覚が軽薄だろうか(笑)
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