新党日本が分裂。田中康夫が孤立
党といっても所属しているのは代表の田中康夫、荒井広幸参院議員、滝実衆院議員の3人のみ。同党は、小泉元首相のいわゆる「郵政民営化」での造反組らで成り立った。造反組の寄り合い所帯として国民新党と新党日本がヒッソリと誕生していた訳だ。
ちなみに国民新党の方はあの評判の良い綿貫代表やちっとも静かではない亀井衆院議員などが所属しており、次の参院選いかんではキャスティングボートを握るとも囁かれている。森元首相辺りから。
してその新党日本。
新井と滝が解党を宣言。今後は無所属で活動すると発表。事実上の空中分解となる一方で田中は「(解党は)有権者への冒涜で、断じて受け入れられない」と彼らを批判し、党の存続を意図しているという。
新井、滝としては同党では選挙後も方向性として先が見えないのだろう事(与党との連携)と、もう一つ、田中が党内手続きを踏まずに(勝手に)参院選「公約」として『憲法9条第1項・第2項の堅持』を盛り込んだ事にもあるという。
9条とは、筆者をして極左の極地とも感じさせる、結果として「国防、自衛すら認めない」「自衛隊は不要」「もし攻め込まれたら日本人は皆で死ねば良い」などという狂気の如き夢想的平和念仏を喚く反日左派の、今やその全てを凝縮した様なものとなっている。厳密に言えば左派=平和的というのも大きな誤解であり、というよりむしろそれらは彼らのプロパガンダのそれなりの成果とも言える。現実的に旧ソ連社会主義や中共(チャイナ共産党)、カンボジアらを見て分かる様に、左派コミュニズムが平和的で安全であった試しが無い。右派というべきか微妙だがそれらに比べて資本、民主主義の方が極めて安全であるとはお世辞にも言えないが、やはり比較して「マシ」なのだ。結局、曲がりなりにも選挙で選ばれて来る代表達の行う政治と、選挙も行われず他思想の生存できない共産党一党独裁となるそれでは比較の対照とすらならないと感じる。更に細かい事を言えば、本来右派(右翼)とは現体制保守であり、左派(左翼)とは革新を意味したものであり、現代的な上記の捉え方とは必ずしも合致しないが、この際ではその様な原理的な意味では扱わない。
2項は「(1項に続く)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とある。
これが現行憲法と現実に明らかに則さないものであり、後述する拡大解釈の危険も内包、既に広がっているものであるから、真っ当な感覚ならば憲法改正においてこの項も真っ当に機能させる(制限を与える)為に書き直すべきだとするのが当然で、筆者もまたそう考える。9条は精神をうたうならばそれだけでも良いが、クドいが現実性も加味して自衛権を当然として認める事を明記し、その為の国防軍を保持する事。そして集団的自衛権も当然であり、国際貢献もする。そして、日本は侵略戦争を是とせず永久にこれを行わず、また他国のそれにも決して与しない。
とこの様であれば良いと考えている。
田中康夫の様な人物を見ていると、人には合う器というか向き不向きというものがあるのだなと感じさせられる。
これに見る様に、彼は明らかに国政には向いていない。というよりこれではやらせてはならない。
しかし、彼はしがらみだらけで機能不全に陥り財政難にも喘いでいた長野をある程度立て直した様に、そういった能力には長けているとは思うのだ(しかしながら後に、結局長野は逆行の道を選んだ様に見えるのが心配でもある)。
これは地方行政を下に見る様に意味するのでは絶対にない。
むしろ我々の生活に直結するはこの地方行政であり、知事や市長ほどこれを左右する存在はないのだ。
ある意味ドラスティックな改革・変革を期待するにはこちらの方が分があるかも知れない。
知事や市長も、しっかりとした国家観も持っていてくれた方が当然良く、安心できるが、この様な例もあるという事だ。
地方自治体の長として能力を発揮した田中康夫も、
この様子では、国政ではあまり役に立たないだろう。
ついでに言えば、公の場でぬいぐるみを弄りながら話し掛ける感覚も気持ち悪かったのだが、
国政の場であっち方向を向いて9条を弄るのも相当気持ち悪いですよ。と苦言を付け加えておく。
党といっても所属しているのは代表の田中康夫、荒井広幸参院議員、滝実衆院議員の3人のみ。同党は、小泉元首相のいわゆる「郵政民営化」での造反組らで成り立った。造反組の寄り合い所帯として国民新党と新党日本がヒッソリと誕生していた訳だ。
ちなみに国民新党の方はあの評判の良い綿貫代表やちっとも静かではない亀井衆院議員などが所属しており、次の参院選いかんではキャスティングボートを握るとも囁かれている。森元首相辺りから。
してその新党日本。
新井と滝が解党を宣言。今後は無所属で活動すると発表。事実上の空中分解となる一方で田中は「(解党は)有権者への冒涜で、断じて受け入れられない」と彼らを批判し、党の存続を意図しているという。
新井、滝としては同党では選挙後も方向性として先が見えないのだろう事(与党との連携)と、もう一つ、田中が党内手続きを踏まずに(勝手に)参院選「公約」として『憲法9条第1項・第2項の堅持』を盛り込んだ事にもあるという。
9条とは、筆者をして極左の極地とも感じさせる、結果として「国防、自衛すら認めない」「自衛隊は不要」「もし攻め込まれたら日本人は皆で死ねば良い」などという狂気の如き夢想的平和念仏を喚く反日左派の、今やその全てを凝縮した様なものとなっている。厳密に言えば左派=平和的というのも大きな誤解であり、というよりむしろそれらは彼らのプロパガンダのそれなりの成果とも言える。現実的に旧ソ連社会主義や中共(チャイナ共産党)、カンボジアらを見て分かる様に、左派コミュニズムが平和的で安全であった試しが無い。右派というべきか微妙だがそれらに比べて資本、民主主義の方が極めて安全であるとはお世辞にも言えないが、やはり比較して「マシ」なのだ。結局、曲がりなりにも選挙で選ばれて来る代表達の行う政治と、選挙も行われず他思想の生存できない共産党一党独裁となるそれでは比較の対照とすらならないと感じる。更に細かい事を言えば、本来右派(右翼)とは現体制保守であり、左派(左翼)とは革新を意味したものであり、現代的な上記の捉え方とは必ずしも合致しないが、この際ではその様な原理的な意味では扱わない。
2項は「(1項に続く)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とある。
これが現行憲法と現実に明らかに則さないものであり、後述する拡大解釈の危険も内包、既に広がっているものであるから、真っ当な感覚ならば憲法改正においてこの項も真っ当に機能させる(制限を与える)為に書き直すべきだとするのが当然で、筆者もまたそう考える。9条は精神をうたうならばそれだけでも良いが、クドいが現実性も加味して自衛権を当然として認める事を明記し、その為の国防軍を保持する事。そして集団的自衛権も当然であり、国際貢献もする。そして、日本は侵略戦争を是とせず永久にこれを行わず、また他国のそれにも決して与しない。
とこの様であれば良いと考えている。
田中康夫の様な人物を見ていると、人には合う器というか向き不向きというものがあるのだなと感じさせられる。
これに見る様に、彼は明らかに国政には向いていない。というよりこれではやらせてはならない。
しかし、彼はしがらみだらけで機能不全に陥り財政難にも喘いでいた長野をある程度立て直した様に、そういった能力には長けているとは思うのだ(しかしながら後に、結局長野は逆行の道を選んだ様に見えるのが心配でもある)。
これは地方行政を下に見る様に意味するのでは絶対にない。
むしろ我々の生活に直結するはこの地方行政であり、知事や市長ほどこれを左右する存在はないのだ。
ある意味ドラスティックな改革・変革を期待するにはこちらの方が分があるかも知れない。
知事や市長も、しっかりとした国家観も持っていてくれた方が当然良く、安心できるが、この様な例もあるという事だ。
地方自治体の長として能力を発揮した田中康夫も、
この様子では、国政ではあまり役に立たないだろう。
ついでに言えば、公の場でぬいぐるみを弄りながら話し掛ける感覚も気持ち悪かったのだが、
国政の場であっち方向を向いて9条を弄るのも相当気持ち悪いですよ。と苦言を付け加えておく。
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